樹木描く日本画 / 老椿図
30代半ばくらいから、全国あちらこちらのすばらしいや花があると聞くと、出かけていってそれらをスケッチしたり、写真に収めたりしてきた。それらの(や花はそれぞれに魅力的で個性を持っていた。でも、描くとなると限られてくる。まずは平面上に移し替えた時に魅力的かどうか。これは、そのものが持っている魅力とはまた違う。美しい花だから、描くと美しくなるとは限らない。逆に、本物はそんなに魅力がなくても、平面に置き換えると魅力的なものもある。あるいは、もっと現実的にはスケッチできる場所であるかどうか。いくら素晴らしくても、スケッチ道具を抱えて歩ける範囲でないと難しい。また、それらをクリアしても、描けるのは限られている。たくさんある掛木や花の中か僕が描いたのはほんの一握りだ。ほんの一握りのほんの一面を描いたにすぎない。僕の画業人生あと三十年として、桜、椿、藤、梅、欄、杉、山毛、椎、銀杏、伊吹、楓、岩などなど描きたい画題はいっぱいある。それに、それらのある風景など合わせると、一つの欄種で、数点描いたとしてもすぐに数十点もの作品の下図ができてしまう。そうなると、桜なら、あそこと、ここと、梅ならあそこと、ここと、ここと。そう言っている間にも、他に描きたい画題が次から次へと生まれてくる。雲も山も仏様も・・・・。僕の頭の中に浮かぶイメージを全て描ききれそうにもない。「芸は長く人生は短し。」でも、身体が動く間は描いてゆこう。五十歳を超えた頃からそう思うようになった。まだまだこれからだ。 / 訪れた樹のなかで、日本画で描くものはほんの一部だが、そのなかでも二度描くのは珍しい。さらに三度日本画にしたのはこの街と「神代桜」だけではなかろうか。そのくらいこの「小野家の椿」の表情は豊かで、描くには絶好のモチーフだった。絵ができるときには2つのタイプある。一つ目は、最初の構想、下図から完成まで、ほぼイメージ通りできてしまう作品。もう一つはイメージ通りいかず、何度も消したり直したりしながら完成にこぎつける作品。この作品は、どちらかというと後者である。背景も当初と大幅に変わったし、最後の最後で赤い椿の花も白に変えた。いわゆる苦労した作品である。作品のできという意味では、どちらが良いとは一概にいえないが、自分自身の問題で言えば、後者の方が印象深い。旅で道に迷いながらやっとたどり着いた目的地という感じだ。展覧会場で自分の作品を初めて見たときも冷や汗が流れた。そんな作品だからこそ、より愛おしいのかもしれない。
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