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藤花図 大久野の際からイメージして / 天子の欅図

この際は東京都日の出町大久野というところにある藤の樹だが、野生で大きくなった樹なので、真ん中にアラカシと杉の樹を抱き込んで生長している。巻き付かれた杉やカシたちは締め上げられ、成長とともに、幹にフジの枝を食いこませて苦しそうだ。実際に、藤の葉や花は、それらの街をつたって、最上部まで上り詰め、そこで元の街が受ける光を奪うように生い茂りる。半日も座り込んでスケッチをしていると、ふと気がつく。廻りの地面のあちらこちらから、何十本と藤の枝が突き出して、別種の樹に巻き付きながら、上へ上へと枝を伸ばしている。一つの生命体が地面からわき上がり囲まれているような恐怖を感じる。一見する藤の美しい花のたたずまいと、同時に他の樹種に寄生して育つ生命力のどん欲な逞しさと、そんな姿が描けたらと思う。 / 「天子のケヤキ」、あるいは「天司のケヤキ」と呼ばれているこの欅はキリスト教との関係が深い樹である。一説には「バテレンさんのケヤキ」とも呼ばれていたそうである。根本には観音様のような像が祀られているが、よくよく見ると西洋的な像のようにも見える。石田明夫氏によると、会津とキリスト教の関係は「1590年から1627年まで会津を2度支配した蒲生氏、蒲生前期の蒲生氏郷・秀行と蒲生後期の秀行・忠郷の時代は、切支丹仰が盛んでした。会津若松市内には現在3ヶ所の教会跡が残されています。その後、加療明・明成の弾圧で切支丹信者は一掃され、江戸時代はごく一部の隠れ切支丹しかいませんでした。」とのことらしい。大きな様のうろの中が祭壇のようにも見え、観音像のように見えるこの像を隠れキリシタンたちがマリア像として礼拝していたのではと、つい夢想してしまう。ただ、この場所は、当時の猪苗代城の外堀の内側にあり、キリスト教の礼拝所が建っていた場所であるということを鑑みれば、必ずしも民衆との関連は少ないかもしれない。つい、会津という土地柄が、江戸初期から半ばにかけての切支丹弾圧や、明治政府との戦いに敗れる会津藩の受難の歴史を重ねてしまうのかもしれない。ちょうど訪れた時、半分朽ちかけた欅の大きなうろの前に八重の水仙が咲き誇り、脇には山吹と椿が、それらの勘と像にまつわる風景を美しく彩っていた。小高く盛り上がる盛り土の上に立つの掛と花の佇まい、それ自体が、自然の祭壇か教会であるかのように見えた。

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